実践心理学科 源先生へのインタビュー1

毎回,研究のたびに発見の続きですね。

 

どうも、今日はこんにちは。

 

一同:よろしくお願いします。

 

このインタビューのお話を中坪先生から最初聞いた時に、ゼミの紹介という事でしたが

 

――はい。

 

ゼミで何をやっているか、そういうことかなと私は思っていました。前回皆さん方が(アポ取りに)いらした時に、先生個人の研究の中での面白い発見とか、研究者としてのキャリアのお話、今回はその二つの話題を混ぜながら、お話しようと思っています。

 

一同:はい。

 

最初に、ゼミでは何やってるかってことをお話します。私が心理学専門の教員ではなく、図書館の情報学の研究者です。ゼミでは三つの分野を勉強しています。第一に、例えば図書館の利用者はどのような心理を持って来るとか、そのような図書館の利用法の関連です。図書館利用者の研究、障がい者と利用者との関係だとか。二番目に絵本を含む児童文学に関する研究。三番目が読書とか出版流通ですね。ベストセラーの本の傾向とか、それらを全部心理学という観点から考察します。例えば、絵本ならば発達心理の観点からアプローチしていくとか、そんなような感じで、卒レポをやってますね。それで、もう一つ別の面から見ますと私のゼミは、大学院に行く学生さんは来てもしょうがないですとはっきり言っているんですよ。つまり、卒業して実社会に出る人、そういう方だけが入ってほしい。大学院に行く希望の学生は、三年から四年に進級する時に、大学院を受け持ちの先生のゼミへご紹介致しています。先ほどの三領域、図書館?情報学、児童文学、それから読書及び出版流通、それら三領域の根底にあるのは何かというと、情報なんですよね。情報をいかに入手して、加工する、というスキルです。手法ですよね。この手法は、社会人になっても非常に生活の場で役立つと思われます。文章の書き方について学び、事務的な文章がうまく書けるというスキルを身につけてもらう。三年生の時にずーっとやってて、四年の卒レポに結びつける。卒レポのテーマを先にのべた三つの領域から見ますと、「心理学的側面から見るグリム童話に関する研究」、「昔話における残酷性の検討」等の人物の心理を分析するものがありますね。

 

――はい。

 

卒レポのテーマは、必ず心理学的観点を活かすということを必須条件にしてます。資料を探し出すことは、三年の時の勉強の大きな目的です。外部の図書館に夏休みは行って図書館見学、レポートを出させます。文章を書かせてそれを添削します。三年の後期はゼミ生が10名位いますから、いくつか本を与え示し、ひとつを選ばせて、皆で輪読します。四年生になると卒レポの書き方についての本を半分は三年で学習し半分は四年で学びます。人数は今、四年は13、三年が11名ですね。ですからまあまあの人数なんじゃないですかね。中坪先生は今どれくらいいますか?

 

――五人ですね、私たちの代は。

――そうですね。

 

私のゼミは先程のべたように心理学専門じゃないんです。皆和やかにやってる感じです。なにしろ和やかにやってくれってことが最初からの私の希望ですからね。できたら三年と四年とも交流できるだけ持つようにしてもらいたい。

ここから質問がありましたらお答えしましょう。

 

――そうですね、やはり研究についてひとつ、聞きたいですね。

 

研究の話は山ほどあるんです。

 

――はい。

 

例えばこの前の君達の質問で、面白い発見とかそういうのありませんかとのことでしたけど、

 

――はい。

 

毎回、研究のたびに発見の続きですね。研究の性格上、毎回発見です。私が研究を仕事としてスタートした辺からのヒストリーをお話しします。私が大学院を修了して研究をスタートしたのは30歳少し前位かな。20代後半で修士論文を書き、専門図書館に勤めた後です。当時の社会状況を見ると、最初にアメリカでパーソナルコンピュータ(PC)が作られたのが1962(昭和37)年なんですよ。これは現実的マシーンではない、いわゆる一般の人がかなり大きなPCを買ってきて電源入れて、パッとつくという風なのが出たのが1977(昭和52)年です。1977年をもってPC元年としているんですよ。私が研究についてまもなくぐらいにPCが登場したのです。しかし、日本では大学院の頃にはパソコンはふれませんでした。

 

――へえ。

 

大学の大きなコンピューターセンターへ行って、パンチカードを打ち込んでね。大変だったんですよ。大学生の頃にはコボル言語をマスターしました。大学院は専門の異なる経済学から情報学へ行きました。パソコンの利用状況自体は、入手することはできなかった。大体、日本では5年から10年遅いですからね。ですから大学院の頃は、色々な情報学の本読んでも、出てくる用語が実際見てるもんじゃないんでね。理解するのに大変だったです。大学院の後半では、コンピュータ関係から離れましてね。図書館?情報学の情報学の方を離れて、むしろクラシカルな、書誌学という方向へ行ったんです。大学院を出るころになりますと、書誌学を専攻し、図書館に勤めました。それで数年たってからこの淑徳にお世話になったんです。その頃はもう完全に書誌学の方に方向転換して図書館学の、トラディショナルな方向にいた訳です。そうしていて1980(昭和60)年ぐらいからワール?プロフェッサーだとか、PCを使いだしました。高かったですよね、大きいし。皆さん方が今こういう風にPCとかノートPCを使うことが当たり前だと思いますが、当時は大変だったんです。最初の研究の段階では、コンピュータはありましたがPCがなくて、まだPCを使う環境ではなかったんですね。昭和の終わり頃からだんだん我々もPCを使うようになってきて、論文を書く時とか、検索する時に利用し始めました。私の場合、日本の地理学の歴史だとか、地理学の思想をやってるわけなんです。例えば、わかりやすい例でいきますと、毎回毎回面白い発見はたくさんあるんですけど、学生さん向きの面白い発見で見ますと、あなた方日常生活の中で「表日本?裏日本」という言葉を使うでしょう。使いませんか?太平洋側の日本は表日本、日本海側の日本が裏日本と。それらの言葉は、ポピュラーなんですけれども、最近、差別的な用語なんであんま使わないようにしてるんですけど。それらの言葉を最初に作った人っていうのは誰かっていうのを発見したのも、実は私なんです。

 

――へええ。

 

「表日本?裏日本」に関する本があると私の名前が登場します。その事実を知ったのは、遺族の方を見出して、遺族から聞き出したんですね。それまでは誰も知らなかったですね。

 

――へえ~。

 

遺族が言うんだから確定でしょう。「矢津(やづ)昌(まさ)永(なが)(1863-1922)」という地理学者なのです。それをまあ私が一番先に見出したのです。その人の肖像写真も私が遺族から手に入れて初めて学会に発表しました。

 

――へえ。

 

その人に関するどんな本を書いたかっていうのも今だったらパソコンでデータベースを利用できるでしょうけど、当時はなかったですからね。全部図書館に行って調べて、現物も調べました。中身まで調べたりしました。そうすると今までの先行研究での誤りがたくさん出てきましてね。

 

――はい。

 

矢津昌永の研究が今にどう役立っているのかって言いますと、君達が知っている気象現象「モンスーン」がありますよね。

 

――はい。

 

矢津は明治時代に「モンスーン」の研究を既にしていました。先駆的に。現代の研究に結びついてきたんですね。私はそのモンスーンの研究が現代のモンスーンとどのように結びつくのかっていうのがわからなかったけども。後になって、そういう客観的データをきちんと積み重ねていって、単純な価値判断を入れずに、研究を続けてきた成果ではないか。矢津は帝国大学出身者ではなく、学歴的中央の学界からだんだん疎外されていくんです。民間の地理学者ですからね。大体私が研究しているのは民間の学者がほとんどなんですよ。

 

――はい。

 

当時の地理学会では、外国の本を元にし、それを翻訳しているんですよ。部分的に原書名が出てくる場合もあるけれど、その名前もカタカナですから、原語は難しいですよね。江戸末?明治期の地理学書の種本探しです。

 

 

 

*インタビュー2につづく